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 メジャーのプロスペクト(若手有望株)が日本で開花。日本では「よっしゃー」でおなじみのアメリカ系関西人『タフィ・ローズ』です。

 注:英文表記に慣れるため英語にて記載しております。英文文字にカーソルを当てると日本語訳が出ます。

 【20】 カール・ローズ [ Karl Rhodes ][ Full Name = Karl Derrick Rhodes ]
 [ 外野手 左投げ/左打ち/35歳 ][ メジャーデビュー90/00/00 ][ 誕生日68/08/21 ][ 出身:オハイオ州シンシナティ ]
  Team G AB AVG HR RBI SB R H 2B 3B BB SO SLG
1990 HOU 38 86 .244 1 3 4 12 21 6 1 13 12 .372
1991 HOU 44 136 .213 1 12 2 7 29 3 1 14 26 .272
1992 HOU 5 4 .000 0 0 0 0 0 0 0 0 2 .000
1993 HOU 5 52 .000 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
1993 CHC 15 4 .288 3 7 2 12 15 2 1 11 9 .538
1994 CHC 95 269 .234 8 19 6 39 63 17 0 33 64 .387
1995 CHC 13 16 .125 0 2 0 2 2 0 0 0 4 .125
1995 BOS 10 25 .080 0 1 0 2 2 1 0 3 4 .120
TOTAL - 225 590 .224 13 44 14 74 132 29 3 74 121 .349
1996 近鉄 130 501 .293 27 97 11 80 147 29 1 58 122 -
1997 近鉄 135 511 .307 22 102 22 88 157 37 0 91 109 -
1998 近鉄 134 494 .257 22 70 15 81 127 25 0 81 120 -
1999 大阪近鉄 131 491 .301 40 101 5 94 148 38 1 71 115 -
2000 大阪近鉄 135 525 .272 25 89 6 85 143 25 2 58 134 -
2001 大阪近鉄 140 550 .327 55 131 9 137 180 19 0 91 140 -
2002 大阪近鉄 138 145 .272 46 117 5 94 145 31 2 71 140 .596
※一部データ不備がございますがご了承ください
【  】

ローズは、ソフトボールをしていた母の影響で野球を始めました。6歳の時に野球で遊んでいる際、打球が顔面に直撃する。しかし、ローズは何事もなかったかのように涙を見せなかったそうだ。それを見た母がそのタフさから彼に『タフィ(TUFFY)』という愛称を付け、日本に来た時の登録名も『カール・ローズ』ではなく『タフィ・ローズ』とした。(確かに、来日した1年目から130試合フル出場を果たすタフぶりでした)

ローズは、ウエスタン・ヒル高を経て1986年のドラフトでアストロズに3位指名されました。
メジャーデビューは1990年、しかし残念ながらアストロズ時代にあまり彼が活躍する機会が与えられませんでした。
1992年シーズンのほとんどをマイナーで過ごしていたローズだが、1992年9月1日3Aツーソンで、スチュワーデスだったソンジャ夫人と7000人の観衆の前で結婚式を行うという一大イベントを行った。
1993年にロイヤルズに移籍したが、すぐトレードに出されヤンキースからカブスへとめまぐるしくチームが変った。

カブスに移籍した翌年(1994年4月4日)には、開幕の対メッツ戦で先発のグッデンから先頭打者ホームランを放ち、続く第2打席(3回),第3打席(5回)と連続ホームランを打つ。これは、メジャーリーグ記録史上初の開幕戦3連発で、ローズが本塁打を放ったリグレーフィールドは1932年10月1日、ヤンキースとのワールドシリーズ第3戦でベーブ・ルースが、『ストライク・ワン』,『ストライク・ツー』とストライクを取られるたびに投手を指さし、その直後今度は投手ではなくセンターの上方を指さして、見事センターバックスクリーンへホームランを放った『伝説の予告ホームラン』があった球場だった。(しかし、試合は8−12でメッツに敗れた)

1995年にボストン・レッドソックスに移籍するも活躍機会が無く、翌年新天地を求めて近鉄バファローズと契約を結んだ。

日本では、1996年3月30日の西武戦(西武ドーム)で1軍デビュー。その年にパ・リーグタイ記録となるシーズンサヨナラ本塁打3本を放つなど日本野球の適応性を見せつけた。翌年には、7月の月間MVPに選ばれ、1997年度のベストナイン(外野手)に選ばれた。
そして、1999年にはチームが最下位になったものの本塁打王,打点王の2冠を獲得。

2001年には、西武松坂大輔から王貞治に並ぶ37年ぶりのシーズン55本塁打を記録し、チームも12年ぶりのリーグ優勝を果たした。王の記録に並んだ終盤、ローズに敬遠の試練が襲った。王監督のいるダイエーホークスは、ローズに対して勝負しないことに非難を浴びせられた。この年、一緒に3,4番を打った中村紀洋と合わせた本塁打数が101本をマークし、この記録は同一チームのコンビホームランの記録である。そして、ローズはMVPを受賞する。

2002年は、西武のカブレラと本塁打争いをするが、今度はカブレラが55本塁打で勝負をさけられるというローズと同じ苦しみを味わった。本塁打は46本と及ばなかったが、打点は117でローズが勝り打点王になっている。

このカブレラとローズ、実は1990年に中南米4ヶ国で開く『ウインターリーグ』でカブレラと知り合っていて、そのとき以来2人は親友なのである。(当時ローズは22歳,カブレラは18歳であった)
カブレラが来日1年目で日本野球の壁にぶつかった時にローズは「我慢、我慢」とアドバイスしたという話がある。

日本野球に溶け込むため努力したローズは、大阪弁をマスター。記者が「がんばってください」と話しかけた際には、「おまえもがんばれよ」とつっつみを入れる始末。サインをもらいに来た子供たちにも「順番に並んでください」など完全な日本人だ。他にも、グラブやサイン,バイクなどにも『狼主(ろうず)』と書いており、そのバイクに乗って球場に向かう途中、警察に暴走族と間違えられて職務質問をされたことがある。

近鉄史上最強の助っ人外人との呼び声も高いタフィ。近鉄初の日本一になるには彼の力が必要だ。


【タフィ・ローズの記録】
■MVP
 
2001年 [ パシフィックリーグMVP ]

■月間MVP
1997年7月
2001年6月

■本塁打王 1999年 40本
2001年
55本

■打点王 1999年 101打点
2002年
117打点

■ベストナイン 1997年 [ 外野手 ]
1999年 [ 外野手 ]
2001年 [ 外野手 ]
2002年 [ 外野手 ]

■その他記録 1999年 [ IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞 ]
2001年 [ IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞 ]
2001年 [ 日本シリーズ敢闘賞 ]
2001年 [ パリーグ特別表彰(シーズン55本塁打,137得点,364塁打) ]
2002年8月13日 通算1000本安打達成 [ オリックス戦(グリーンスタジアム神戸) ]
2002年4月22日 通算200号本塁打達成 [ 日本ハム戦(東京ドーム) ]

■MLB 開幕戦3本塁打(史上初記録)



記録を出したタフィ


55号ホームランの記念プレート


カワサキモータースジャパンからプレゼントされた
バルカン1500ミーンストリークの『狼主』部分


※タフィはカワサキファンで他にもバルカン1500
クラシックツアラーFiとZZ-R400を愛用している。



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